March 16, 2014  | Category: 人・社会・宇宙・芸術・技術
宮台真司氏の2月20日発刊の、湯気が立っているほどホットな著書を読み終わり、心に留めておきたいくだりがありましたので、ご紹介。

☆「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」


第6章「政治 日本社会再設計に立ち塞がる数多の勘違いを排除する」より
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市場の効率性や再配分の合理性にも増して、なぜ相互扶助が大切なのか。私が思い出すのは、アリストテレスです。彼は2400年前に「良い社会は何か」を論じています。それによれば「良い社会」とは、豊かな社会でもなければ、犯罪が少ない社会でもありません。
そんなことはどうでも良いのです。「良い社会」とは、徳のある者が溢れる社会のことです。徳(ヴァーチュー)とは<内から湧き上がる力>です。いわば自発性ではなく内発性。損得勘定で何かを選ぶのは自発性で、損得勘定を超えるものが内発性です。
徳=内から湧き上がる力は、人々の尊敬尊重(リスペクト)を集め、感染的模倣の輪を拡げます。そのようにして最大限の社会成員が有徳=内発的な振る舞いをするようになった社会こそが、アリストテレスによれば「良い社会」です。皆さんはどう思われますか。
僕は完全に同感します。そして15年以上前から次のような例で同感を表明してきました。殺人発生率について考えてみましょう。社会Aは人々が「殺してはいけない」と確信するから殺人発生率が小さい。社会Bは監視と処罰が徹底しているから殺人発生率が小さい。
どちらが「良い社会」なのか?アリストテレスに従えば、社会Aが社会Bよりも殺人発生率が何倍も高かったとしても、「殺してはいけない」と確信する者が多ければ社会Aの方が良い。「有徳者が多い高殺人率の社会」は「有徳者が少ない低殺人率の社会」より良い。
これを最初に明言したのがアリストテレスです。繰り返します。人殺しの多寡にかかわらず、人々が内発的に良き振る舞いをしようと思っている社会こそが「良い社会」に決まっています。そうした「良き社会」の実現が政治の<最終目的(テロス)>であるべきです。
アリストテレスは加えて重要なことを言います。有徳者は「良き社会」を実現しようと政治に関わろうとするのだと。つまり、自分が有徳者になるだけでなく、最大限の人々が有徳者になる社会を実現しようとするのだと。有徳性には他者の有徳化が含まれるのだと。
こうした思考が、20世紀半ばにかけて活躍した教育哲学者ジョン・デューイのそれに繋がっていることは、もはや言うまでもありません。つまり、教育の<最終目標>とは、子供を幸せにすることよりも、他人を幸せにする(ことで自らも幸せになる)子を育てること。
(中略)
我々は一体何を嘆いているのでしょう。市場や国家が機能不全を起こした社会が悪い社会でしょうか。そんなことは二次的な重要性しかないはず。<内から湧き上がる力>によって政治を<引き受け>ようとする者が溢れていることこそ、大切ではありませんか?
そして政治の<最終目標>とは、<内から湧き上がる力>によって政治を<引き受け>ようとする者が、ますます増えるように働きかけることではありませんか?むろん<引き受け>ようとする者たちが賢明であることは極めて大切です。でもそれはやはり二次的です。
(中略)
最後に申します。昨年僕が看取った師匠の小室直樹先生が、日本はもう駄目だと慨嘆する私に「否、宮台君、社会が悪くなると人が輝く、心配はいらない」と諭されたのが15年前。私は昨今の状況を見るにつけ小室先生のおっしゃった通りなのかもしれないと感じています。
とりわけ、若い人たちに申し上げたい。どうか2010年代を「他人任せ」にせず、「自分たち」の手で切り開いて実りあるものにしてください。否定的な踏み台になることを含め、この文章を含めた僕の活動がそれに役立つなら、これにまさる幸せはありません。
------------------------引用文---------------------------

宮台氏は本書の最後の最後にこう書かれています。
「思えば、前著『日本の難点』は次女が生まれる直前に上梓され、本書は長男が生まれた直後に上梓されたことになる。妻に言われて改めて思ったが、私と子供たちとの関わりが、私の執筆内容にとても大きな影響を与えているのだろう。自分の子供たちやその友達と遊ぶ中、私が社会について考えたり社会に働きかけたりするのは目の前のこの子たちのためだと、幾度も思った。」

私も、社会について、分からないなりにも、考え続けたいと思う。





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